<隠れ家紀行>  豚の聖地。ローブリュー

食べ歩き , 隠れ家 ,

「ぶた」。

彼女は一言つぶやくと、少女漫画の目で天空を見つめた。心なしか頬が赤らんでいる。

「最近いい店見つけた?」

軽い気持ちで聞いただけなのに、返ってきた答えが、この「豚」の一言である。

僕としても、返答のしようがない。

どうして僕の回りには、パン狂いや、あんこ偏執狂や、ラーメンマニアといった、偏った食嗜好の女性が集まるのだろう。

「脂よ脂。はぁー」。

今度は目を細めて、ため息をついた。

「で、いい店はどこなの?」

僕は仕方なく、彼女の世界に割り込んだ。

「青山にあるバスク料理の店なの。バスク地方で修行したシェフが、フランス人が日常家庭で食べているような、豚料理を作ってくれるの。豚の頭でしょ、耳、舌、血、モモ、豚足、それに骨付きロース、はぁー」。

またため息だ。でも骨付きロースにはそそられた。

「そりゃ、うまそうだなぁ。連れてけ」。

「オーケー。でもその日は。思い切りおなか空かしてきてね」。

「了解」。

 

当日我々は、骨董通り入口で待ち合わせをして、六本木通り方面に向かった。

十分ほど歩くと、彼女は路地を右折した。

暗く、閑静な住宅街。そういえば以前、パン偏執狂の彼女に、この辺りにある隠れ家のパン屋バーに連れていかれたっけ。

そんあ考え事をしていたら、突然彼女が見えなくなった。あわてて捜すと、マンションとマンションに挟まれた袋小路を、すたすたと歩いていくではないか。

こんな場所に店があるのかとあきれてついていくと、突き当たりに、店がひっそりと隠れていた。

鍵型が重なりあった手裏剣のような紋章と店名が、わずかな光に照らされている。

「ここよ」。

彼女は誇らしげに微笑むと、豚の足を形どった真鍮の取っ手を、勢いよく押して中に入った。

 

 

白い漆喰の壁と太い梁や柱、カツカツと音を立てる床。黒板に手書きされたフランスの日常食。

客のおいしい賑わいに満ちた店内。南仏のビストロに紛れ込んだような趣に背中を押され、途端に腹が空いてきた。

「さあ、なに食べる?」。

彼女はすっかり戦闘モードになっている。しかしメニューを見るほどに、思いは乱れる。散々悩んだ挙句、豚中心の構成でいくことにした。

爽やかな口当たりを持つ、ジュランソンのワインで喉を湿らせていると、第一の皿が登場した。

舌や耳の軟骨などの異なる食感が楽しい、「豚頭のゼリー寄せ」である。

甘く溶ける豚皮の脂と酸っぱいグリビッシュソースとの調和に、陶然となって目を細める。

一方彼女は、「バスク風豚の血のパテ」に突進して、皿から顔を上げようとしない。

 

「豚足と豚耳のパン粉焼き」が運ばれた。

濃厚なゼラチン質が身上の豚足には、同じく濃厚なベアルネーゼソースがかけられている。

くにゃりとした食感の豚耳には、チーズの酸味を生かしたソース。

うーん心にくい。彼女はゼラチン質で唇の周囲をテカテカさせながら、笑っている。うーんこいつも憎めない。

 

メインは「白金豚の骨つきロースグリエ」にした。

肉の繊維にギシギシと歯が入っていくような感触が、肉を食べているぞという満足感を加速させる。脂は甘く、肉の味もきめ細やかで品がある。

すっかり豚肉に充足しきった我々は、デザートをパスして、食後酒を飲むことにした。しかし二人とも満腹すぎて言葉が出ない。

ふと気がつくと彼女は、グラス片手におやすみになられている。

豚の夢でも見ているのだろうか、幸せそうな顔で寝息を立てている。

「男は七時間、女は八時間、豚は九時間の睡眠が必要だ」。

僕は、そんなフランスのことわざを思い出した。